こんにちは、こんばんは、まめイチです。
みなさん、最近なんか良くないことばかり。運気悪いわーって感じる時ってありませんか?まさに今の私。そんな時にはすぐに何かにすがりたくなるのは私だけですかね(笑)
そこで、行ってきました。厄払い。

なんとなく厄払い、という言葉に少し距離を感じていた時期がありました。
けれど今は、違います。
気がつけば、自分の番が来ている。そういう年齢になった、ということなのかもしれません。
<目次>
石清水八幡宮という場所
先日、関西でも厄払いの名所として知られる
石清水八幡宮に足を運びました。場所は京都・八幡市。

男山の上にある神社です。観光地としても知られていますが、実際に訪れてみると、その印象は少し違います。もっと静かで、もっと“内側に向かう場所”という感じがします。
本殿へのアクセス
京阪電車を降りて、男山へ向かう。徒歩でも登れますし、ケーブルもあります。
どちらを選んでもいいのですが、その選択にその日の自分が表れる気がします。
今回は徒歩であがることにしました。厄を払いに来たのだから少しなりとも努力をせねば、という今の気持ちのあらわれです。
石清水八幡宮という場所(厄払いの意味を考える)
石清水八幡宮は、全国の八幡宮の中でも格式が高く、厄除け・開運のご利益で知られています。ただ、その説明だけでは、この場所の本質は伝わらない気がします。

シンプルな行為の中にある整理の時間
そして参拝という行為は、とてもシンプルですよね。お賽銭を入れて、手を合わせる。
「二礼二拍手一礼」
形式としてはそれだけです。けれど、その一連の動作の中に、思考を整理する時間が含まれている気がします。
厄払いのあとに残るもの
厄払いも同じです。
「厄を落とす」というよりも、一度立ち止まり、自分の状態を受け入れる行為。
そう考える方が、今の私にはしっくりきます。厄払いのあとに残るもの祈祷が終わって外に出ると、景色は何も変わっていません。
けれど、不思議と自分の中にほんの少しだけ変化が生まれています。
劇的ではありません。ただ、少しだけ軽い。
年齢とともに変わる祈りの意味
若い頃は、「何かが変わること」を求めていました。
けれど今は、「変わらないことを受け止め、その中でどう整えるか」そんな気持ちになっています。これが大人になるってことか(笑)
変化ではなく“整う感覚”について
石清水八幡宮での厄払いは、そうした調整のための時間なのだと思います。
リセットではなく、微調整。
だからこそ、終わったあとにちょうどいい”整った”感覚が残ります。
やわた走井餅とは何か
参拝を終えて帰ろうとしたとき、ふと頭に浮かんだのが、やわた走井餅。参道前の駐車場の脇でもかわいい販売ブースがあります。和菓子好きにはどうしても気になる”走井餅”という存在。聞いたことのないそのネーミングが私を誘惑してきます。

やわた走井餅という存在(八幡市の老舗和菓子)
石清水八幡宮の周辺で知られる老舗の和菓子です。
派手さはありません。いわゆるSNSで話題になるような見た目の強さもありません。
けれど、長く続いている店には必ず理由があります。
走井餅は、ぷにぷにのやわらかな餅に控えめな甘さの餡が入った、とても素朴な和菓子です。一見、餃子のようなその飾っていないフォルムにも好感がもてます。
やわた走井餅とは
公式には次のように説明されていました。
- 1764年、大津の名水「走井」を使い創業された餡餅が起源
- 名水は成務天皇の産湯にも使われた由緒ある水とされる
- 餅が刀の形をしているのは名刀伝説に由来し、開運出世の縁起を担ぐ意匠
- 東海道名物として広重の浮世絵にも描かれた歴史ある菓子
- 明治期に八幡へ継承され、本家廃業後も唯一の直系として存続
- 天皇への献上歴も持ち、250年続く名物として親しまれている
なんて素敵で由緒正しいお餅。たくさん受賞しています。

旅人のための菓子という本質
つまり、これは目的地のための食べ物ではありません。
「途中」にある食べ物です。旅の合間に、ひと息つくためのもの。移動と移動のあいだにある時間を整えるもの。人生100年時代の中盤の私にもぴったりじゃないですか!
そしてどことなく落ち着いたパッケージが安心感を醸し出します。

なぜ「餅」が区切りになるのか
なぜ「餅」が区切りになるのかをここで少し考えてみます。
なぜ、参拝のあとに餅なのか。
餅が持つ日本的な意味(節目・連続・区切り)
実は、日本において、餅は特別な存在です。
祝い事、節目、切り替え。そうした場面で、自然と登場します。
主役ではありませんが、確実に意味を持っています。まさに、区切るための食べ物。
走井餅も同じです。参拝という行為のあとに、その余韻を受け止める時間として存在しています。
今回は5個入りを購入。一見餃子のようですがぷっくりとしたフォルムがなんともおいしそう。

意外と大きい。もちもちの感触がまたたまらない。

甘味が担う“思考の緩衝材”としての役割
そして、気になる味ですが、甘さは控えめです。
印象に残りすぎない。
だからこそ、ちょうどいい。
強く記憶に残るのではなく、静かに自分の中に馴染んでいきます。
ただの和菓子ではない時間
走井餅を食べている時間は、思っている以上に静かです。
考えているようで、考えていない。整理しているようで、答えは出していない。ただ、頭の中が少しずつ整っていきます。

日常は途切れません。仕事も、思考も、判断も、ずっと続いています。
だからこそ、意図的に区切る必要があります。
厄払いと餅が自然につながる理由
石清水八幡宮で厄払いをして、やわた走井餅を食べる。この流れは、強制的に“区切り”をつくってくれます。何かが解決するわけではありません。けれど、同じ日常に戻る準備ができる。それだけで、十分かもしれません。
そして、5個独り占めで緑茶を片手に一気食いでした(笑)

まとめ(気づき)
今回の何気ない厄払いでしたが、いくつかのことを知り気づきました。
・厄払いは「運を変える」より「状態を整える行為」
・関西でも有数の厄払いスポットは、観光ではなく“思考の余白”をくれる場所
・やわた走井餅は、八幡市に根付く「途中のための和菓子」であること
・餅という食文化には、日本人特有の「区切りの感覚」が自然に含まれていること
・年齢を重ねるほど必要になるのは、変化ではなく「適切に区切る力」であること
結局、何かが劇的に変わるわけではありません。
でも、少しだけ整う。
厄払いに行って、餅を食べる。文字にすれば驚くほどシンプルですが、
案外それくらいがちょうどいいのかもしれません。
また日常に戻って、少し疲れたら思い出す。
石清水八幡宮と、あの餅のことを。
そしてきっとまた、同じように足を運びます。
理由は特にないままに。
たぶんそれが、
ちゃんと機能している証拠なのだと思います。
本日も、最後までお読みいただきまして、ありがとうございました。